3000系(3003編成)麻生駅
このデザインは東京メトロ6000系譲り?
地下鉄の開業まで札幌市の交通機関の中心は路面電車とバスでした。しかし,昭和40年代からの モータリゼーションの波は札幌にも押し寄せ,特に冬季間の渋滞は凄まじいものでした。さらに 冬季オリンピックの開催が決定され,オリンピック会場への見物客や選手の輸送は,バスや市電 では対応し切れないことは明らかでした。そこで,札幌の冬にも定時性が確保される大量輸送 交通機関ということで,札幌市北部の北24条から札幌駅・大通を通ってオリンピックのメイン会場 である真駒内までをルートとする地下鉄南北線の建設が取り上げられました。
しかし,当時の札幌は人口もまだ80万人ほど。地下鉄の建設には100万人の人口が必要との当局の 見解がありました。それでも札幌の天候の特殊性とオリンピック輸送を盾にねばり強い交渉を 続け,ようやく建設の認可が下りたのでした。
「札幌なんかに地下鉄を走らせて熊でも乗せるのか」という運輸省担当者に対し,「料金を払えば 熊でも乗せる」と言った当時の交通局長大内豊氏の逸話は有名なものです。
札幌の地下鉄が独自の「札幌方式」を採用したのは,一言で言うと, 単に他市の地下鉄をそのまま模倣するのではなく,将来的な展望を持ち札幌にもっとも適した 形態の大量輸送交通機関を建設しようとした結果といえるでしょう。札幌の将来を担う地下鉄を どのようなものにすべきかについて,当時の交通局では既存の地下鉄にとらわれず,どのような 形態が最適化をはじめから検討することから始めました。これからの交通機関は 一般的に快適,安全,迅速という条件を満たし,さらに輸送力,生産性,技術革新などが要求され, これらに合致しない交通手段は容赦なく淘汰されていくと考えていました。
そして当時の新交通システムあらゆる角度から研究し検討を重ねた結果,上記の要件を満たす 地下鉄として,静粛性,加速性,登坂性に優れた案内軌条によるゴムタイヤによる走行方式が提案 されたのです。
また真偽のほどは定かではありませんが,旧定山渓鉄道(定鉄)の軌道を利用するために環状通の 下をくぐり,定鉄軌道跡にのり白石・藻岩通(南22条通)の上を越えるためにはかなりの急勾配に なってしまうこともゴムタイヤ方式を採用した理由の一つのようです。当時ゴムタイヤを使用した地下鉄は世界ではパリ,モントリオール,メキシコの3例あり,その どれもが転轍器を渡るときに鉄車輪を使う「鉄車輪併用型」でした。札幌の地下鉄は新タイプの 転轍機(上下式転轍機)の開発により,転轍,走行ともタイヤで行う独自のタイプで「札幌方式」と いう名称がつけられました。
昭和39年11月,東苗穂に直線150mの試験線が建設され,廃車バスを活用した 第一次試験車によって,タイヤによる案内軌条方式の足回りと転轍機の操作,耐寒・耐雪,軌道 除雪の試験が行われました。これらの試験のうち,耐寒・耐雪試験だけがことごとく失敗し, 試験車両の精密機械がことごとく機能を失うことになってしまいました。
軌道部の除雪についても,ロードヒーティングのみでは融雪能力が不足してしまいます。そこで, はじめに赤外線装置による融雪機能の補充が取り上げられましたが,安全運行に疑問が残る結果と なりました。次に走行面の雪を吸い込む掃除機の原理を応用した除雪試験車が考えられました。し かし,これもゴムタイヤによる圧雪やベタ雪では吸い込みが不可能でした。さらに市電と同じササラ 式の除雪車も考案されましたが,除雪効率が悪く高速電車の走る地下鉄には不適合と判断されたの です。そこで,「いっそのこと覆いを被せてしまえば軌道も痛まず,除雪の心配もない。窓を大きく とれば外の景色も楽しめる。」というシェルター案が採用されることとなりました。
地下鉄建設の際に問題となったのが「軌間」です。今まで鉄道は二本のレールが敷かれるもので, 当然,レールの幅である軌間がはっきりと決められ,免許申請の際に「軌間」という項目も明記 しなければなりませんでした。しかし,札幌の地下鉄はゴムタイヤによる案内軌条方式なので, 「軌間」というものがありません。この件に関しても交通局と当局の交渉の末,当局が省令を 改正して「案内軌条方式」という項目を追加することで落ち着きました。
南北線は札幌最初の地下鉄で昭和46年12月の開業です。このおよそ50日後に冬季オリンピックが 開会しました。南北線は都心とメイン会場の真駒内を結び,ラッシュ時には4両編成の1000系または 2000系が4分半間隔で運用されていましたが,オリンピック輸送には最大8両編成まで増結され, 開業当初から大活躍しました。その後昭和47年7月にダイヤ改正が行われ,ラッシュ時の電車の6両化 など輸送力増強が行われました。当時は時間帯で編成両数を変えて運行しており,2両編成の1000系14本 と4両編成の2000系7本があり,柔軟な運用が行われていました。また,総建設費は434億円(1kmあたり 地下部41億円,高架部23億円)となっています。なお,南北線を走る車両については 車両研究室・南北線の車両をご覧下さい。
北24条から麻生町を通って新琴似駅前(実際には200m位手前の北札幌病院前交差点)までは地下鉄 開業後も市電が走っていました。この路線は地下鉄開業により他の市電路線から全く独立してしま った悲しい路線でした。しかし,北方面へのバスの拠点となったこともあり,周辺の混雑が激しく なり,延長の要望が出ていました。このような事情から南北線の麻生延長が決まり,昭和49年6月に 着工し,昭和53年3月に開業しました。総工事費は390億円(1kmあたり163億円)にまで膨れ上がり, 南北線初期開業地下部分の4倍,東西線の1.6倍にもなりました。残されていた市電鉄北線も南北線 北24条−麻生間延長開業より前に姿を消してしまいました。この延長区間は,2年前に開業した東西線 同様,各駅にエスカレータを配置し,モダンで明るい色調を採用しています。
各駅ともバスターミナルまたはバス待合所が設けられ,地下鉄の出入口と直結しています。 これにより,北方面へのバスは北24条の接続から麻生接続へとシフトし,麻生駅が主要バスターミ ナルとなりました。現在麻生駅には中央バスを中心に数多くのバスが発着し,大通,さっぽろに次ぐ 札幌の地下鉄駅で第三位の乗降客数(平成9年度一日平均3万人)を誇る大きな駅となっています。
しかし,麻生駅から数百メートル先の国鉄(当時)新琴似駅とは全く連絡していません。市電は 新琴似駅前までありましたが,地下鉄は麻生までしか建設されませんでした。新琴似駅に行くには 麻生駅1番出入口から地上を歩いて10分ほどです。特に吹雪の日などは歩くもの大変なので,地下道 だけでも延長してくれればとよかったのに思います。しかし,当時南北線は茨戸方面への延長が計画 されており,新琴似駅手前の北札幌病院前交差点から右へカーブし,創成川方面へ延びる予定だった ため,新琴似駅は計画ルート上にはなく,連絡は考慮されなかったようです。また,当時札沼線も一日 十数往復の列車が往来するだけのローカル線で,今のような都市近郊路線ではなかったことも理由で しょうか。
参考資料:
黒須幸光「札幌の大動脈地下鉄はゴムタイヤで運行」『運転協会誌』,39(7),日本鉄道運転協会,1997.7。
(財)札幌交通事業振興公社『Sapporo Traffic History』,1995.3。
札幌市交通局『100万人の新しい足 札幌市地下鉄開通記念』,1971.12。
札幌市交通局『さっぽろの足 写真でつづる50年』,1977.12。
札幌市交通局『さっぽろの地下鉄・バス・電車』,1999.4。
札幌市交通局『札幌地下鉄建設物語』,1985.12。