東豊線の歴史

ここでは東豊線の歴史について研究します

ホームに並ぶ7000系と6000系(西28丁目駅)
東西線内を走る7000系回送電車です。


 南北線開通後,強制的にバスを地下鉄駅に短絡させたこともあって,南北線は麻生駅や北24条 駅を中心に混雑が激しくなってきました。当時の南北線は乗車率が230%にまで昇り,もはや南北線の 輸送能力は限界にまで来ている状態でした。一方で,南北線開通後も東区の住民は南北線の短絡が 困難であることから,主に北光線や東15丁目通を通る都心直行バスに頼る状態でした。しかし,冬期の 渋滞やバスの高密度運転自体がさらに渋滞を引き起こすといった状態で,東区のバス輸送も限界に 来ていました。そこで,南北線の混雑緩和と東区の新たな大量輸送交通機関の確保という 二つの目的から,東豊線の建設が推進されることになりました。


 札幌市交通局では,東豊線建設に当たり4ルートを検討しました。計画ルートは現在の環状通東駅 付近からさっぽろ駅付近まで二通り,都心付近を東1丁目の下を通るルートと現行の西2丁目通下を通る ルートの二通り,あわせて2×2の4ルートでした。環状通東駅からの現開業ルート以外のものは,

東16丁目通−(北15東15で右折)−環状通下−(北15東8で左折)−
北光線下−(北8東8で右折)−西2丁目通下or東1丁目通下

というルートでした(地図をご覧になるとわかりやすいと思います)。計画当初から都心部をもっと 南北線に近い西3丁目通下を通るルートなどは考えられていなかったようです。

 結局,創成川との関係や南北線・東西線との連絡の関係から東1丁目ルートは外され,北15条 から北8条を通るルートも線形が複雑になることなどから現在のルートに決定したのです。仮に 東1丁目ルートを採った場合,南北線との連絡には400mの連絡通路が建設され,動く歩道が設置され る予定でした。


 南北線や東西線と違い東豊線は車両基地を持たない路線です。しかし,建設計画の初期では 東豊線にも車両基地(仮称北車両基地)を建設する計画があったのです。建設位置は栄町駅北部を 予定していました。ところが,車両基地の広大な用地を確保することが難しいため,東車両基地の ような2層式車両基地の採用も検討されました。しかし計画地が丘珠空港に近く高さ制限があること, 地下部分は地下水対策を大規模に実施する必要があるなどこれもまた多くの問題がありました。

 そこで,大通駅付近で東西線と東豊線を結ぶ渡り線を建設し,東車両基地を利用する案が検討され ました。定期分解検査は東西線東車両基地まで回送し実施することとし,当初の北車両基地を西車両 基地程度に小規模化して最小限の車両検査と故障修理に対応させるという案です。この案に沿って 計画が進められましたが,北車両基地の用地取得交渉が難航し,用地取得ができない状態になって しまったのです。

 このため,次に検討されたのが東西線西車両基地の利用です。東西線新さっぽろ延長開業時に 東車両基地が完成し,西車両基地では,東西線車両の半数の月検査以下の点検等を行っていました。 この西車両基地を東豊線車両の基地として使用し,渡り線を使用して出入庫させれば東豊線沿線に 車両基地を持たなくてもよいという考えで,最終的にこの案が採用され,現在東豊線の車両は全て 西車両基地に所属しています。また,万一本線上事故や故障が発生した場合に備え,栄町駅奥の 本線留置部分に故障対応ピット線(現栄町検車線)を建設することになりました。

 また,北車両基地建設計画当初は,基地と本線上をATOによる自動回送によって電車の出入庫 を行う予定でしたが,北車両基地の建設断念により,7000系のATO搭載や自動回送運転もお蔵入りと なってしまいました。

 結局,東豊線北車両基地は

定期分解検査を行う大規模基地

月検査以下を行う小規模基地

故障に対応するピット線

という流れで計画がどんどん縮小され,現在の栄町検車線にその姿を変えています。もし当初の 計画通りに車両基地が建設されていれば,東西南北に車両基地が揃い,東西線内を走る7000系の 姿(右図)も見ることができなかったのです。なお,車両基地の詳細は 施設研究室の車両基地・検車線で解説します。


 東豊線の基地を西車両基地とするため,東豊線と東西線の間に連絡線を設けることとなりました。 設置位置は東西線大通駅西側から東豊線大通駅北側までの区間です。この連絡線はちょうど大通公園の 真下を通ることになり,札幌地下鉄で初めてシールド工法が採用されました。

 建設にあたっては既存の東西線の営業を妨げないように細心の注意が施されましたが,東西線との 分岐部分の工事に当たっては,丸一日東西線の運行を止めて転轍機の設置が行われました。実施日は 昭和62年3月22日(日),西11丁目−大通間は始発から全面運休し,琴似−西11丁目,大通−新さっぽろ 間の区間運転とし,運休区間はバスによる代行輸送となりました。渡り線のない西11丁目駅での折り返し というのを不思議に思う方もいらっしゃると思いますが,これは上下本線を単線2本として2編成による ピストン輸送だったのです。そのため,琴似−西11丁目間は運転間隔が12〜15分となっていました。 もちろん,時間帯により発着ホームも変わり,この日だけは特別な案内放送が流れていたようです。 さらに,この当時,市電との乗り継ぎ指定駅は大通駅とすすきの駅のみでしたが,当日だけは琴似方面 から西11丁目駅−中央区役所前電停の乗り継ぎができました。

 このような大がかりな工事を経て,札幌地下鉄で唯一の湾曲式転轍機が設けられ,東西線と東豊線 がつながったのです。


 昭和63年に豊水すすきのまで開業した東豊線は当初から福住まで延長される計画でした。 この方面でも国道36号線を中心にバスの高密度運行が行われ,冬期のバス遅延問題など,東豊線 北部と同じ問題を抱えていたのです。そのため豊水すすきの−福住間は平成2年に着工され,平成 6年10月14日に開業しました。また,延長開業にあわせ,7000系後期車5編成が増備されました。

 この延長区間の大きな特徴は,トンネル断面の縮小などによる建設費の圧縮です。通常の函形 トンネルでは,縦の大きさで30cm,横で34cmほどトンネル断面が小さくなっています。トンネル断面 が小さくなったため,7000系初期車の屋根上機器類の移設も行われています。

 これらの対策の甲斐あってか,東豊線延長部では1kmあたりの建設費が175億円と,初期開業 区間栄町−豊水すすきの間の建設費の約2/3に抑えることができました。ただ,東豊線初期開業区間は 地盤の悪さから莫大な建設費がかかっているので,単純比較は難しいかもしれません。1kmあたり 175億円という建設費は,昭和57年に開業した東西線延長区間の建設費1kmあたり180億円よりも抑えら れているのです。この間バブル経済などの影響で物価がかなり上昇していますので,実質的にみると かなり建設費が抑えられていると考えられます。

 もう一つの特徴としては,トンネル建設に3つの工法を採用している点も特徴でしょう。豊水 すすきの−学園前間がシールド工法,美園−月寒中央間が山岳トンネル工法,その他の区間が通常の 開削工法です。シールド工法を採用している豊水すすきの−学園前間では,上下線が約20mほど離れて います。山岳トンネル工法の美園−月寒中央間では,上下線の間に柱はありません。

 駅ホームも全て島式を採用し,当面の4両編成での運行にあわせ,ホームは6両分しか完成して おらず,2両分が未完成のままであるなどコストダウンを図っています(右図参照)。また,学園前駅 と福住駅を除いて改札口は1ラッチ,出入口も2カ所を基本とし,それ以上は民活出入口としています。 それでも終端の福住駅は大規模バスターミナルが併設され,各方面からのバスが短絡する形になって います。

 平成13年6月の札幌ドームオープンを前に平成13年3月末に東豊線でダイヤ改正が行われました。 改正の最大のポイントは,福住駅でのホーム折り返しを実施すること。これは札幌ドーム利用者の輸 送に対処するためです。札幌ドームがオープンすると東豊線の様子もおそらく激変すると思います。


参考資料:
札幌市交通局『札幌市高速鉄道 東豊線建設史(栄町〜豊水すすきの間)』,1989.9。
札幌市交通局『札幌市高速鉄道 東豊線工事記録(豊水すすきの〜福住間)』,1995.3。
札幌市交通局『さっぽろ市営交通』No.44,1987.3。


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2001/6/3更新
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